千利休を語る本のように見えて、実は、それを素材に「前衛」が形式化してしまった現代への危機感を書いている本と読んだ。
「本来の詫茶は、形式美ではなく、それを崩すことにある。」
日本の文化における利休の茶の位置を赤瀬川さんならではの視点で描く前半
路上観察学の「トマソン物件」を面白がる気持ちに、利休の気持ちを重ねていくくだり。
海外の、拡張を志向する文化、自己主張のエネルギーに初めて出会った室町時代から安土桃山時代。外の世界を知ることによって、自らの縮小、あるいは極小に向かう美学に気づいていったその脈絡の中に侘茶の世界があるのではとする考察。
韓国で見た足軽部屋に茶室との類似を見たことから、井戸茶碗の価値観との同質性「日常の辺境をあえて引き寄せる美意識の勇気」を見る。
前半は日本の文化における利休の茶の位置を赤瀬川さんならではの視点と文体で描き、読ませる。
前衛という悪役の慢性化も一種の形式願望の現れでは?」
そして後半では、「お茶を入れる、その入れ方が儀式化していくというのは、生きていることへの不安によるものではないか」と、「形式美に身を潜めることの快感」を書くとともに、一回性をもって特権的に許される瞬間の悪=前衛を、悪ぶることが新しいとでもいうような卑しい技術とはき違えている現代のあり方を、「前衛という悪役の慢性化も一種の形式願望の現れでは?」と鋭く指摘する。
これは思考や判断の停止であって、決して本来の意味の「前衛」ではない、と。
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