「若い人は料理しないからね」
よくきく言葉です。
でも、そんなことを言葉にしたところで何も変わらない。
「お母さんはもっと料理をすべき」
「食育は家庭でなされるべき」
これもよくきく言葉。
でも、「べき」といったところで現状は変わらない。
そもそも、自分で料理を作るのがよくて、外で食べるのはいけないって誰が決めたのだろうか?なぜ家で自分で料理をする方がよいと考えるのだろうか。
おそらくそのあたりからきちんと整理しないと、問題の整理もまたできないと思う。
「私は80点以下なんてとったことがないのに、あなたは落第点?」子どもにそんなことを言って意味があるだろうか?
例えば子どもがテストで40点しかとれなかったとする。
その点数で一番居心地の悪さを感じているのは、おそらく本人だ。
「私は小学生の時に80点以下なんかとったことないのにあなたは!」と子どもに言ってプラスはあるだろうか?
子どもががんばった結果、次のテストで50点をとった。
「よく努力したね」とその努力を褒めるのが親ではないだろうか。
今、あるレベルに達していないという状況を、鬼の首でもとったかのように「今の若い人は」と批判するのは、「私は80点以下なんてとったことがないのに、あなたは落第点?」と子どもに言う親の姿と重なる。
何が原因で料理をしない人が増えたのか。
批判して終わりという態度の先には何もない。
「私はやっているけれど、今の若い人は」
その態度には、歪んだ優越感が見え隠れする。
「今の食のあり方では未来が危い」
もし本当にそう思うなら、どうしたらいいかを真剣に考えたい。
「べき論」では解決しないのは今までの経緯からも確実。
何が原因で料理をしない人が増えているのかを考えることから解決策も浮かぶと思う。
でも、そもそも、家で料理をしないのが悪いことと見なされるのはなぜなのだろうか。そこから考え始めることも、あるいは必要かもしれない。
何にせよ、自分が優越感を味わいたいがためだけの批判は辞めて、アイディアを出していきたい。
現状を認めた上で、まずは目指すべき方向と、なぜその方向を目指すのかを考えたい。
さらに、ではどうしたらそのゴールに近づくことができるのかを考えていきたい。
なぜ、私はできるかぎり家で料理を作りたいと思うのか
料理は、自分の気持ちを整理する時間と感じている。
だから、日々、出来る限り自分で食べるものは自分で作る。
その時間を持つことで、安定した気持ちでいられるように感じているからだ。
とはいえ、これが全ての人に当てはまるとはかぎらない。編み物をすることで心が落ち着く人もいる。ジョギングがそれに当たる人もいるだろう。
ただ、こんなことも考えてほしい。
外食産業の論理だけの世界になれば、どうしても安い食材という方向に流れがちで、手間ひまかけて食材を作る生産者がその営みを続けることが難しくなる。伝統的な食のあり方、作り方が、次世代に継承されなくなってしまう。
だから、楽しみながら料理をする人が増えるといいなと思うのだ。
そんな仲間が増えてほしいと思うのだ。
与えられる選択肢の中から選ぶだけではなく、主体的に自分が食べるものを、そしてその先にある未来の社会を選んでいきたい。
そんな思いがある。
トム・ソーヤーに学ぶw。20年前から思っていること
「近頃の若い人は料理をしないからね〜」
そんな若い人をその気にさせる方法を工夫していこうと思う。
それにはきっと、「日々料理するのって滅茶苦茶楽しいし、気分いいのよ〜」と楽しさをアピールすることなのかなと思っている。
トム・ソーヤーが楽しそうに壁のペンキ塗りをすることで、それを見た友だちが大事なものをトムに与えてまでペンキ塗りを「させてもらった」ように。
トム・ソーヤー・メソッドと私は密かに呼んでいるのである。
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