沢木耕太郎の「深夜特急」に夢中になった若い日があった。
数日前、30年以上出版することなく封印していたという引退を決めたばかりの藤圭子とのインタビューを描いた「流星ひとつ」に心を揺さぶられたあと、偶然にもいきなり書店で目の前にあった「旅する力」を買い求め、続いて読み、改めて自分は彼の影響を大きく受けてきたなと思った。
初めて書いた連載は、世界の旅行記+レシピだった
実は私が初めて書いた連載は、旅行記+その土地で食べたものにインスパイアされたレシピというものだった。
懐かしくなって引っ張りだしてきたら(一部のコピーしか残っていないが)、94年頃から2年ほど書き続けたものだったか。
ケニア、マレーシア、カリブ、韓国、フィリピン、マレーシア、プロバンス、アメリカ(田舎街とNY)などが手元にあり、その半分は幼稚園にあがる前の娘を連れての旅について書いていた。
娘を産んでから知り合った友人たちと、今も続くご縁に心から感謝!
出産してから知り合ったアクティブなママたちが企画してくれた料理とトークの会の資料「サカイ優佳子のクッキング&ノート」('96)という小冊子も出てきた。
アメリカの企業に5年勤め、その後、中西部を中心に10回以上アメリカを数週間ずつ訪れていた頃の紀行文とアメリカ料理レシピを書いたもの。先月のホビークッキングでもこの企画をしてくれた仲間のうちの二人が手伝ってくれた。
実はつい数日前に、疎遠になってしまっていたその頃の仲間のうちの1人からFacebookで「久しぶり〜」と挨拶がきた。
「私たちは『ママ友』ではないのよ」の発言に思わず笑ってしまった。
「ママだけではない自分でいたい」
共通だったのはそこ。
母親同士が知り合いになり、子はそこに付属するという形で知り合いになった。
あの頃の私たちは、幼い子を抱えながら地元の幼稚園にインタビューを続けて情報集を作ったり(PCなんてない時代だから手書き&コピーだった。デジカメもなかった)、面白い講師をよんで講演会やイベントを企画したりを繰り返していた。
そんな仲間のネットワークの中から話がきて、3才の娘との1週間のプロヴァンス取材旅行にもでかけた。
香港に短期間住んでいた時には、でかける前にその仲間のネットワークから香港在住の友人を探して連絡をとり、子連れで香港を食べ歩いた。今は日本に住む彼女とも、時折食事やコンサートを楽しむ仲だ。
先日、その頃からの仲間が、「私たちはママ友ではないのよ。そうはいってほしくないの。」と他の人に話しているのをきいて思わず笑ってしまった。
いろいろな人たちと出会い、繋がり、助けられ、ここまで「旅して」きたんだなと感慨新たな朝。
そして、自分のプライベートの名刺を持つとしたら、
Ms Yukako Sakai そして片隅にTravelingと刷ろうなんて思ったりもする朝なのであった(Inspired by Breakfast at Tiffany's)。
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