パリでの食のことについては、これから少しずつ書いていこうと思うが、はじめにこれを書いておきたい。
夫の会社の本社があるので住んでいたクレルモンフェラン。夫は出張で不在のことも多く、結局私たちより先に帰国した。娘が現地校1年生を終えるまではと、6歳の娘と1歳の息子と私の3人はその後も滞在し続けた。それは、娘に心の傷をおわせたくないと思ったからだ。
代用教員はレイシストだった。
担任の先生が怪我をした間にきた代用教員は人種差別が凄まじかった。「ほ〜ら皆さんみてください。またMはこんなひどいフランス語を書いているのよ」クラスメートにそう言って、娘の答案を毎日毎日ゴミ箱に投げ捨てた。「フランス語が話せないなら学校にくる必要はありません」とまで言われた。
6歳の娘は何も食べられなくなり、血を吐いて入院した。私はずっと娘につきそって病室で寝泊まりした。まだおっぱいを飲んでいた息子は病院にくることを禁じられたため、スコットランド人家族に預かってもらって朝と夕方おっぱいを飲ませに連れてきてもらった。どんなに検査しても娘の吐血の原因はわからない。結局娘はそのストレスから血を吐いているのだろうと診断された。
当時、クレルモンフェランには英語を話す店は1軒しかなかった。英語で話すことができるとほっとしたものだ。行くと決まってから現地に着くまで2週間しかなかったため、アーベーセーも知らないで住み始めた街で、娘を学校に送り届け(送り迎えが義務づけられている)、息子をベビーカーにのせて入った店で英語を話したとたんに「シッシッ」と追い払われた。そんな時代だった。
娘を守らねばと校長先生に直談判に行った。「英語はダメです。フランス語でお話を」と言われ、辞書を片手に必死で食い下がった。でも実は校長は英語が理解できるのだった。悔しかった。長く住んでいる外国人の母親たちがそれを見てサポートしてくれた。看護師をしていたというアメリカ人のお母さんが病院での通訳にたってくれた。「優佳子、Mのためよ。負けちゃだめよ」実はこの件は街で大きな問題となった。
代用教員はクビになり、娘は無事に退院した。
日本で話をきいた娘の祖父母たちはこぞって「もう日本に返した方がいい」といってきたが、私は反対した。「このまま帰ったら、たまたまあたった教師に資質がなかったという偶然によって、娘はフランスを嫌いになってしまうに違いない。外国は怖いところと思ってしまうかもしれない。」
フランス語とともに、当時のさまざまな思いが甦った
娘はその後、たくさんの友だちをつくり、帰国した時には「フランスに帰りたい」と言っていた。実は北京に行くことに決める前、フランスで医者をしたいからEUで医学部にいきたいと考えていた時期もある。フランスで入院した経験からだという。素敵なフランス人にもたくさん出会えた。
はじめは「フランス語もしゃべれないでどうしてくるのかね?」と陰口をいっていた街の人たちも多かったのだが(喋れなくても聞きとれはしたのだw)、私たちが帰国する時には「またいつか来てね」とプレゼントを渡しにきてくれた人も多かった。
それ以来の16年ぶりのフランス。
何十人いてもシ〜ンとしていたレストランはガヤガヤと普通に会話が聴こえるようになり、ほとんどの店が英語を話す。時は流れたんだな、と思う。パリだからかもしれないが、それでも初めてフランスを訪れた時(3歳の娘と二人で雑誌の仕事で1週間プロバンスとパリとに滞在した)はパリもやはり英語はなかなか通じなかった。
今回、フランス語の本を見ることもなくパリに降り立ったのだが、不思議なことにフランス語が戻ってくる。1年もいなかったし、まともに勉強したわけでもないから、上手ではもちろんない。私にとってはキュウリが男だろうが女だろうが関係ないw。そんなサバイバルレベルの汚いフランス語でしかないが、16年の時を経てまだ、言葉が自分の中に残っているのが不思議だった。
そしてフランス語が口からでてくるたびに、その言葉を口にした場面がたくさんたくさん甦った。いい想い出ばかりではない。日々を生き抜くこと、娘を守るのは私しかいないという必死の思いがあったからこそ、深く私の中に刻み込まれていたのだと思う。
血を吐くほどの辛さを娘は味わった。母親としてその娘を見るのはほんとうに辛かった。でも今はやはり、あの経験が娘を私を成長させたと思える。
人生に無駄なことなんて、きっと一つもない。
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武香代子 (月曜日, 11 5月 2015 00:15)
初めまして。
私も3年間の間、日本ではありましたがそのような経験があります。子供さんのために、頑張られましたね〜。素晴らしい‼️
(Facebookでは、旧姓のkayoko oguraになっています。)