「シェアをデザインする」を読む。
2012年都内で行われた連続シンポジウム「シェアの未来」をもとに作られた本だ。
ストックを継承し創造的に再生させる社会へ
さまざまな分野の人たちの講演および対談によって構成されているので、ざっと読める。
今までは、人が属する実空間や社会的空間を一つに固定することは当たり前だったし、そうした圧力が存在した。
こうした社会では、その空間における社会的慣習や規範にあわせていればラクなので、自ら考える必要性は低かった。
これから人口が減り、経済規模も縮小していく日本社会においては、新たなものを作りだすよりも、今あるストックを継承し活用しながら創造的に再生させていく時代に移っていく。「完成」という概念が希薄な社会。常に「未完成」(=in
progressな状態)が続いていく社会だ。
ここではシェアという概念が大きな意味をもってくる。
所有を前提にしていた既存の価値観、モノを、シェアという概念でとらえなおすことで新たな価値を生み出せる可能性が広がるとする。
シェアとは、限定された、しかし複数の異なる主体の了解のもとでのみ成立するため、一カ所で通用したことが他の場所でも通用するかはわからない。(通用する部分、あるいは考え方は当然あるだろうが)
ある意味、その場、その時の最適解。
そこでは、プロセスを含めた創造のシェアが(というより、プロセス自体が創造?)必要であり、クリエイティビティの評価は、それに愛着を持ってもらえるかいなかで判断される。
シェア社会においては、人はさまざまな「居場所」を動き回ることとなる。今までの「標準的」な慣習や規範は今以上に解体され、自ら考えることが必要とされることになる。
だいたいこのようなことが書いてあった。
「考える自分」
高度成長期には、考えるよりも、上から言われたことをとにかくやってくれるモーレツ社員が重宝がられたわけだし(ソレをシメシメと思っていた層もいるはずではあるが)、男は外で働き、女は結婚し、子どもができたら家に入って子育てにいそしむという「標準的」な暮らしをすれば、社会の中である程度にはうまくやっていけるという時代がつい少し前まで続いていた。
子どもの重度のアトピーが原因で仕事を辞めた時、親戚の年上の女性たちから「子どものためには家にいるのが一番よね」と口々にお褒めの言葉(笑)をかけられた。私が仕事を辞めたことを、子どもを育てながら勤め続ける人へのあてつけのネタにも使われ閉口したことがある。
そういう圧力が少なくなってくるメリットはある一方で、シェア社会は、ある意味「逃げ場のない」社会であると言えなくもない。自ら考えること、自ら選ぶことが必要とされてくるからだ。
ストックの活用にクリエイティビティを見いだしていくという意味においては、ヨーロッパ的な考え方が手本の一つになるのだろうと思う。
シェアということについては、自分の身近なところにも落とし込んで、ちょっとじっくり考えてみたいと思っている。
いろいろなシェア的考え方の事例もそれぞれの発言者から出ていて興味深かった。
どういう人たちとどういう繋がりをもって生きていくのか。自分が属する空間も、少なくとも自分の意識の問題としては一つに固定する必要はなく、アメーバ的な仕事のしかたというものもあえて進めていきたいと改めて思うこととなった。
キーは「考える自分」だ。
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